海上において外国籍船舶などに対して実施される保安上の立ち入り検査は「臨検」と呼ばれる。これまで我が国では、こうした船舶に対する臨検の実施主体は、警察や海上保安庁などの捜査機関が担ってきた。
海上自衛隊は長らく「平時における一般船舶への立ち入り検査」、すなわち、諸外国の海軍が日常的に実施しているいわゆる臨検業務を想定していなかった。自衛隊法上の制限や憲法解釈、シビリアン・コントロールの観点から、平時の警察権行使に準じる行動は原則として想定外とされていたのである。
海自、平時の「臨検」任務も担う時代へ──工作船事件と周辺事態法の成立が転機に
しかし1999年、日本の安全保障政策に大きな転機をもたらす事件が発生した。いわゆる「能登半島沖不審船事件(通称・工作船事件)」である。北朝鮮の工作船が日本の排他的経済水域内に侵入し、海上保安庁の巡視船との間で激しい追跡劇が繰り広げられた。これにより、わが国の法整備の不備と対応能力の限界が露呈した。
この事件を契機に、いわゆる「周辺事態法」が成立。わが国の安全保障関連法制は大きく見直され、海上自衛隊に対しても必要に応じた臨検の実施が平時においても認められるようになった。
この法改正を背景に、海上自衛隊では臨検任務への対応能力強化が進められることとなった。特に重視されたのが、特殊作戦能力を有する専門部隊の整備である。
まず、海上自衛隊の特殊部隊として知られる特別警備隊(SBU:Special Boarding Unit)が創設された。
彼らは、海賊対処、テロ対応、臨検任務などを含む非対称戦への対処能力を持ち、実戦的な訓練と装備を有する。
さらに、通常の護衛艦にも臨検対応要員として立入検査隊が編成されており、有事および準有事における船舶臨検に対応可能な体制が整備されつつある。
このように、かつて「想定外」であった平時の臨検が、法整備と安全保障環境の変化により現実の任務として海上自衛隊の任務体系に組み込まれるに至った。
今後も不審船への対処やグレーゾーン事態の増加が見込まれる中、臨検任務における自衛隊の役割はより一層重要性を増すものと考えられる。
【解説】1999年・能登半島沖不審船事件──北朝鮮工作船との初の本格的対峙
1999年3月23日、石川県能登半島沖の日本海に、正体不明の不審船が突如として出現した。漁船を装いながら、異常な高速航行を行い、海上保安庁の警告を無視して逃走を続けたその船は、後に北朝鮮の対日有害活動に従事する武装工作船であったことが判明する。いわゆる能登半島沖不審船事件である。
■ 背景:非公然活動としての「対日有害活動」
日本政府は1996年(平成8年)以降、警察白書において外国政府機関による日本に対する秘密活動を「対日有害活動」と定義している。その代表例が北朝鮮による一連の工作活動である。これには、日本人拉致、日本人へのなりすまし(いわゆる「背乗り」)、反社会勢力との連携による覚せい剤の密輸、さらには日本国内での諜報活動が含まれる。
北朝鮮によるこうした活動は1980年代から断続的に指摘されており、当時のフィクション作品においてもその片鱗が描かれていた。釋英勝の漫画『ハッピーピープル』に収録された短編「I Love 日本」では、主人公の家族が謎のアジア人によって戸籍を奪われるという背乗りのエピソードが描かれ、現実との不気味な符合を見せている。
■ 発端:不審な兆候と情報の共有
事件の発端は、不審船が出現する数日前にまでさかのぼる。北海道北広島市の警察庁通信所および鳥取県の航空自衛隊美保基地通信所では、北朝鮮からの短波放送、いわゆる「A3放送」に異常な兆候があることをキャッチしていた。
これは北朝鮮が国外の工作員に暗号指令を出すために用いるもので、普段と異なる放送が確認されたのである。
また、米軍からも「北朝鮮の工作船が出港した」との情報が日本側に提供されていた。これらシギント(信号情報)の分析結果が不審船出現の予兆として共有されていたにもかかわらず、実際の対応は困難を極めた。
■ 事件の経緯と衝撃
3月23日、海上保安庁は正体不明の高速船を発見し、停船命令を出すも、無視され逃走を開始。巡視船が追跡し威嚇射撃を実施したが、不審船はこれを振り切り逃走を続けた。船体には強力なエンジンが搭載されており、後に格納式の対空機関砲や通信装置を装備した本格的な武装工作船であることが判明する。
これは、北朝鮮が長年にわたり日本近海へ同様の船舶を潜入させていた実態を白日のもとに晒す出来事となった。
この事件を契機に、日本は有事法制の見直しと安全保障体制の再構築に着手し、臨検任務の法的裏付けを整える「周辺事態法」などが成立。海上自衛隊に対する平時の臨検任務や特殊部隊の編成もここから本格的に動き出すことになる。
【後編】史上初の「海上警備行動」──能登半島沖不審船事件が変えた日本の対処体制

海上自衛隊の艦艇に装備される20mm機関砲(JM61-M)と海自隊員。
1999年3月23日に発生した能登半島沖不審船事件は、日本の防衛・治安体制に大きな変革をもたらした歴史的な事件である。海上保安庁、自衛隊、警察庁の三機関が連携して対処にあたったが、その過程において、日本で初めて「海上警備行動」が発令されるという異例の事態となった。
■ 海保の威嚇射撃と自衛隊の出動
事件発生時、最初に現場に駆けつけたのは海上保安庁の巡視船であった。不審船は異常な高速で逃走し、停船命令を一切無視。これに対し、巡視船に搭載された20mm機関砲や13mm機銃によって合計185発の威嚇射撃が行われた。また、海上保安官が携行する64式小銃9丁によって計1,050発もの弾丸が撃ち込まれるという、極めて緊迫した状況が展開された。
さらに、海上自衛隊のP-3C対潜哨戒機が緊急出動し、不審船の進路付近に向けて150kg対潜爆弾12発を投下。この対応は海保単独では限界を超えていると判断された証左でもあり、事態の深刻さを象徴している。
■ 初の「海上警備行動」発令
このような異常事態に対応すべく、日本政府は自衛隊法第82条に基づく「海上警備行動」を発令。これは、防衛大臣が海上における治安の維持のため必要と判断した場合に、自衛隊を治安出動的に動員する制度であり、国会承認を要しない迅速な措置が可能である。
1999年の本事件は、自衛隊が初めてこの海上警備行動を受けて出動したケースとして、防衛史上重要な分岐点となった。
■ 臨検部隊の即席編成と制度整備への道筋
当時、海上自衛隊には平時の臨検任務を担う専従の部隊は存在していなかった。そのため、護衛艦内では、9mm拳銃や64式小銃で武装した即席の臨検部隊が急ごしらえで編成され、不審船への接近に備えた。この状況は、日本の法制度と実力組織の整備の遅れを浮き彫りにしたとも言える。
事件の翌年、1999年に成立した周辺事態法を受け、2000年には「船舶検査活動法」(正式名称:周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律)が施行された。これにより、海上自衛隊の護衛艦には、臨検任務を担う「立入検査隊(立検隊)」が常設されるようになる。
さらに2001年には、立検隊に加え、強襲・臨検・制圧を専門とする特殊部隊「特別警備隊(SBU)」が創設され、海上自衛隊の対不審船・対テロ能力は飛躍的に向上したのである。
能登半島沖不審船事件は、単なる1隻の工作船による侵犯事件ではなく、日本の防衛と法制度を抜本的に見直す契機となった重大事案であった。後の九州南西海域工作船事件(2001年)や、尖閣諸島周辺の領海警備体制にも、この経験が活かされている。
2度目の事件――九州南西海域工作船事件(平成13年)
能登半島沖不審船事件から2年後の2001年(平成13年)12月22日、北朝鮮の工作船が再び日本の領海に不法侵入し、九州南西海域工作船事件が発生した。これは、日本の海上保安庁が初めて外国の武装工作員と本格的な銃撃戦を交えたことを、日本政府が公式に認めた歴史的事件である。
このとき、工作船は追跡中の巡視船に対し、機関砲や小火器、対戦車ロケット砲を用いた激しい攻撃を加えた。巡視船側は工作船の攻撃に対し、刑法上の正当防衛が成立し、両者の間で熾烈な銃撃戦が展開された。
作戦中、日本政府は海上自衛隊の特殊部隊「特別警備隊(SBU)」に対して初めて出動待機命令を発令。しかし、その直後に工作船は乗組員が朝鮮語で何事かを叫び(「マンセー」と推測されている)、自爆・自沈。
一連の海保による対処の詳細は、海上保安庁の公式資料に記録されている(参考元:海上保安庁公式サイト https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2003/special01/01_01.html)。
後日、自沈した工作船は引き上げられ、内部の調査は公安当局によって行われた。船内からは、ライフルやロケット砲などの重火器のほか、日本国内の暴力団関係者の携帯番号が記されたプリペイド携帯電話、北朝鮮の首領に忠誠を誓う徽章などが発見された。
なお、引き上げられた工作船は東京・お台場の「船の科学館」に展示され、多くの来館者の前に晒された。日本財団会長・曽野綾子は、日本人の「敵にも敬意を払う」精神を体現するかのように、工作員たちに向けて百合の花束を手向けている。その花束には、次のようなメッセージカードが添えられていた。
「2001年12月22日 九州南西海域で沈んだ朝鮮民主主義人民共和国の若者たちに捧げる。日本財団 会長 曽野綾子」
軍用船とは到底見えない漁船風に偽装された船体形状と塗装、そして外観からは判別できないよう秘匿装備された40mm対空機関砲とのギャップは、常軌を逸しており、見る者の背筋を凍らせる。こうした工作船が日本近海に侵入し、国内から人々を拉致していたという事実は、極めて重大である。
船体には、海上保安庁との激しい銃撃戦の末に受けた無数の弾痕が残されており、その攻防の激しさを物語っている。さらに、最終的に船内から仕掛けられた爆発物によって自爆したため、船体は内側から膨張し、歪み、破壊された様子が一目瞭然となっている。
現在に至るまで、北朝鮮に拉致された多数の日本人の安否は確認されておらず、政府も具体的な救出の手段や展望を持てずにいるのが実情である。そのような中、政府および拉致被害者支援団体は、北朝鮮国内に生存していると見られる拉致被害者たちに向け、KDDIの無線設備を活用した短波放送「しおかぜ」によるメッセージ発信を続けている。
北朝鮮による電波妨害を回避しながら、「しおかぜ」は毎晩のように日本から朝鮮半島へ向けて呼びかけられ、家族からの励ましのメッセージ、日本の歌謡曲が流れるなか、ある短い言葉を放送ごとに伝えている。
「あなたがた拉致被害者を長年にわたって無視し、申し訳ありませんでした」
この短い言葉に、見て見ぬふりをしてきた人々らが抱える後悔と、取り戻すべき人権への責任が込められている。
護衛艦ごとに編成され「臨検」を目的とした「護衛艦付き立入検査隊」が発足
「臨検」を専門とする部隊として、護衛艦ごとに編成されたのが「護衛艦付き立入検査隊(Maritime Interception Team:MIT)」である。立入検査隊は、1999年に発生した能登半島沖不審船事件を契機として、周辺事態法が成立したことを受け、海上自衛隊において新たに創設された。
立入検査隊は、各護衛艦に配属される形で編成されており、CQB(近接・閉所戦闘)などの専門的な訓練を受けた要員で編成。海上自衛隊にはすでに特殊部隊である特別警備隊(SBU)が存在するが、同部隊がほとんど公開されないのに対し、立入検査隊は訓練内容や装備の一部が比較的公開されやすく、外部からの検証もある程度可能である。
立入検査隊員は、濃紺に近い色調の「立入検査服」を着用しており、装備としては同色の88式鉄帽、あるいはスポーツタイプのヘルメット、防弾チョッキなどを装備している。その外観は、海上保安庁の特殊部隊であるSST(特別警備隊)と類似したスタイルを呈している。
小火器では、報道等により明らかにされている範囲で、ミネベア製9mm拳銃(P220)、閉所での取り回しに優れる9mm機関拳銃が配備されている。さらに、これらの火器では対応困難な場面においては、64式小銃や89式小銃などのより強力な火器の使用も想定。
一方、特徴的なのが非致死性装備の携行。これは部隊の性質が法執行寄りであることを反映している。
また、隊員が任務中に素顔を露出している点も特筆すべきであり、これは海自の特別警備隊(SBU)や、陸上自衛隊の特殊作戦群といった他の特殊部隊との運用上の相違を象徴している。
すなわち、立入検査隊はあくまでも臨検という法執行的任務に特化した存在であり、秘匿性や隠密性を第一義とする戦闘専門部隊とは明確に一線を画している。
実際、臨検任務は軍事作戦ではなく法執行行為としての性格が強く、隊員たちは伸縮式特殊警棒「ジストス」や手錠など、警察官が使用するような法執行用装具を携行している点が特筆される。
なお、護衛艦付き立入検査隊はあくまで検査を目的とした専従部隊であり、敵勢力に対して突入・制圧を行うような性格ではない。そのため、対象船舶に対して高い危険性が見込まれる場合には、まず特別警備隊によって強襲・制圧が行われ、その後に立入検査隊が移乗し、臨検を実施するという段取りがとられる。
参考文献 自衛隊の仕事全ガイド 隊員たちの24時間: Welfare Magazine総集編