海上自衛隊司令官が自らヘリ操縦し小学校校庭に着陸した目的
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海上自衛隊司令官が自らヘリ操縦し小学校校庭に着陸した目的

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今ではあまり考えられないような感動的な自衛隊による住民サービスの話です。

海上自衛隊版の「クリスマス・ドロップ」と呼べるプレゼント投下が行われたのは、本州最北端の下北半島、青森県佐井村と川内町(現・むつ市)の境にあった野平(のだいら)開拓地です。

実施したのは、青森県大湊基地所属の大湊航空隊(現・第25航空隊)で、使用されたヘリコプターはウエストランド・シコルスキー社製のS-51型3機でした。

S-51は、1946年にアメリカのシコルスキー社が開発した初期のヘリコプターで、1950~1953年の朝鮮戦争では負傷兵の救助搬送に使われ、「コンバットレスキュー」の先駆けとなった機体です。

軍民合わせて約220機が生産され、イギリスのウエストランド社でもライセンス生産されました。

海上自衛隊の前身である警備隊は、1954年初頭にこのイギリス製新造機を3機導入しています。

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当初、S-51は千葉県の館山基地で運用されていましたが、朝鮮戦争時の機雷対策として青函連絡船(1988年廃止)を守る目的で、青森県の大湊基地に移転。

新生大湊航空隊の所属機として津軽海峡での定期哨戒飛行に従事するようになりました。

大湊基地は、陸奥湾に面した南側に位置し、S-51ヘリコプターが津軽海峡の哨戒に就くためには、下北半島の内陸上空を反復して飛行する必要がありました。

やがてその飛行が日常となるにつれ、大湊基地には「手紙」が届くようになります。差出人は、ヘリの航路の真下に暮らす野平の小中学生たちでした。

野平は第二次世界大戦後、満洲やシベリアからの引揚者たちによって開かれた集落です。当時は自動車道も電気も電話も整備されておらず、農作は困難で、冬に唯一の交通手段だった森林鉄道が止まると集落は完全に孤立する「陸の孤島」になってしまう厳しい環境でした。

そんな日々のなかで、空を行き交うS-51は子どもたちの大きな関心の的となりました。

授業の最中であってもヘリの音が聞こえると子どもたちは校庭に飛び出して手を振り、隊員たちもその様子に心を動かされます。

しかし、航空法や部隊の規則があるため、すぐに行動に移すことはできませんでした。

ところが1957年の正月、定期飛行から帰還したS-51から、隊員が自費で購入した絵本がヘリコプターから投下されました。

これをきっかけに、他の隊員も学用品や書籍、菓子などの「物資投下」を始めます。雪解けとともに届いた多くの子どもたちの手紙を受けて、大湊航空隊の司令はある決断を下しました。

5月の晴れた日、司令自ら操縦桿を握るS-51が野平小中学校の校庭に着陸し、子どもたちに慰問品を手渡しました。

この出来事は「ヘリコプターのおじさんありがとう」と全国紙にも取り上げられました。

その後も、大湊航空隊は運動会の校庭上空で祝賀飛行を行ったり、クリスマスには羊羹などをプレゼントしたりするなど、野平の住民と心温まる交流を続けました。

参照 https://trafficnews.jp/post/103208/2

単なる軍事組織の任務の枠を超えて、自らの行動で子どもたちに喜びを届けようとした隊員たちの姿に、思わず胸がじんわり温かくなります。

冷たい雪に覆われた下北半島の小さな開拓地で、子どもたちの笑顔を思って隊員たちが自費で絵本やお菓子を投下する光景。航空法の縛りもあり、今では考えれないでしょう。

自衛隊では過去に、このような住民サービスを各種行っていた史実があるようです。

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