北海道の無線発祥の地・落石無線送信所は飛行船ツェッペリン伯号やリンドバーグとも交信した歴史的な無線局

北海道根室市の根室半島の付け根に位置し、太平洋に突き出た落石岬(おちいしみさき)。20世紀初頭、その落石岬(現・灯台横)の付け根にかつて開局した無線局が北海道の無線発祥の地ともされる『落石無線送信所』です。のちに受信所は根室の桂木へ移され、別々の運用となりました。

1908(明治41)年、北海道最初の無線局として設立され、1920年代から1930年代にかけて、日本とヨーロッパ間の通信を担う海岸局として開局した落石無線送信所は大正4年、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクの電信局と日本初の国際無線通信を開始。

昭和4年にはドイツ飛行船『ツェッペリン伯号』と日本初の対航空機通信に成功。

さらに同6年にはリンドバーグの太平洋横断飛行に際して通信や航法援助も行うなど、日本の通信史において重要かつ特筆すべき役割を果たしています。

1922年にスウェーデンで開局した”ヴァールベリの無線局”も同じく歴史的な無線局として有名ですが、落石無線送信所はまさにその日本版と言えます。

【ロマン】世界遺産「ヴァールベリの無線局」はモールス信号を使用し大陸間の重要な通信手段を担った

落石無線送信所の設立と使命

落石無線送信所は1908(明治41)年に開局、ヨーロッパやアメリカとの国際無線通信を担う施設として稼働を開始。北海道根室の落石岬は、ユーラシア大陸に近い位置にあるため、地理的に通信の中継地として理想的であるほか、北米航路の付近でした。

特に、この時代の通信手段として短波とモールスは最先端技術。海底ケーブルに比べて距離や地形に制約されないことから、無線送信所は国際通信インフラの要として期待されていました。

  1. 長距離航路の重要地
    ヨーロッパとアジア、アメリカを結ぶ航路の要所として、根室の落石岬は極めて重要な位置にありました。
  2. 先進的な技術設備
    当時の最新技術を用いた無線設備が整備されており、国際通信の重要な拠点となっていました。
  3. ツェッペリン号との交信以外の業務
    公衆電報・遭難信号・気象通報・航行警報など日本国内外の通信インフラを支えました。

落石無線送信所の生活環境

落石岬での生活環境は厳しく、ときには不便だっとのことですが、それでも同所には居住棟が5棟・格納庫・共同浴場・テニスコートなど、最低限の居住環境と文化的な施設が整備されたとのこと。当時、居住区となっていた落石宿舎では職員の家族を含めて50人前後が生活していたそうです。

出典 http://www.nemuro-footpath.com/ochiishi/2011/04/post_37.html

なぜ受信所と送信所を切り離したのか?

本来、無線局は受信と送信を同一場所で行う場合が多いものですが、短波無線では送信機の強力な電波発信のため、その近くに受信機を配置すると受信機がノイズで干渉され、微弱な信号を受信しづらくなります。

送信所は、できるだけ広範囲に電波を届かせるため、電波を効率よく送信できる平坦で障害物の少ない場所が求められました。受信所は微弱な信号を拾うため、静かな電波環境(ノイズの少ない地域)が必要でした。通常、受信所は市街地や送信所から離れた、電磁的干渉の少ない静かな場所に設置されます。

これらの理由から、通信品質維持のため、受信所と送信所を別々に設けることもあります。

落石無線送信所の場合、受信所は送信所のある落石岬から20km離れた当時の根室町桂木に設けられました。

落石無線送信所、外国の航空機を通信で援助

落石無線送信所は1920年代から1930年代にかけて日本と世界をつなぐ重要な通信拠点でしたが、単なる通信施設にとどまらず、世界の通信史において重要な存在としても注目されます。

1929年、ドイツ飛行船・ツェッペリン伯号と日本初の対航空機通信

その代表が1929(昭和4)年に成功したドイツ飛行船「ツェッペリン伯号」(LZ 127)と日本初の対航空機通信です。

これは巨大飛行船による世界一周飛行という壮大なプロジェクトにおいて、日本が当時の国際社会で果たした役割を果たしたことを示すエピソードです。

LZ 127、愛称「グラーフ・ツェッペリン」(Graf Zeppelin…ツェッペリン伯号)は長距離航行が可能でヨーロッパからアジア、さらにはアメリカや南極に至るまで飛行できました。同号が補給のため、1929年8月19日、茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊基地(霞ヶ浦海軍飛行場)に着陸したのです。

ツェ号は、1929年8月7日にドイツのフリードリヒスハーフェンを出発し、世界一周飛行を敢行。この壮大なプロジェクトは、飛行船が持つ長距離航行能力と航空機による旅客運送の可能性を示すものでした。ツェッペリン伯号の全長はボーイング747大型旅客機の約3倍となる236メートル。乗り込める乗客はわずか20名。

ツェ号はヨーロッパからシベリアを通り、北海道西部の日本海側上空を経由してアメリカへ向かうルートを採りました。この間、ツェッペリン伯号と無線通信を担ったのが、北海道の落石無線送信所。ツェッペリン伯号と同送信所が交信し、航路上での情報提供や通信中継を行いました。

超巨大な飛行船はゆっくりと遥かドイツからユーラシア大陸を経て北海道の神威岬上空へ差し掛かりました。ツェ号の実際のコースは太平洋側の根室付近ではなく、日本海側の寿都村(現:寿都町)付近を飛行した記録が残されています。この地域の人々は比較的低高度を飛ぶツェッペリン伯号を目撃しており、空に浮かぶその「巨大な鯨」が大きな話題となりました。

このため、根室の人々はツェ号を目視できなかったと思われますが、短波とモールスにより、航路や気象情報の提供、無線による安否確認などが行われました。この際、無線通信士たちが総力を挙げて交信を成功させたと伝えられています。

この交信は日本国内でも話題となりました。

リンドバーグ、空路で来道

また落石無線送信所は1931(昭和6)年7月、アメリカの飛行士であるチャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)による航路調査のための飛行でも、通信に一役買い話題となりました。

リンドバーグは妻で無線通信士のアンを伴って、水上飛行機「ロッキード・シリウス」号で、千島列島を経由して北海道まで飛行。霧や天候不良が多い地域での航法は非常に困難でした。

落石無線送信所は、この航路でリンドバーグが安全に根室港へ到達するための重要な無線援助を提供しました。

その後の落石無線送信所

1930年代以降、無線通信技術はさらに発展し、落石無線送信所の役割は一時的に薄れましたが、第二次世界大戦中には再び軍事通信の拠点として利用されました。

1933(昭和8)年の三陸大津波の際には、当時の釜石漁業無線局の宇佐美敏男無線電信技手が国際遭難周波数を使い、落石無線局や千葉県銚子市の銚子無線局と交信。県に津波被害の第一報を伝えています。また、1952(昭和27)年3月4日の十勝沖地震では、落石無線局が浜中村霧多布の被災住民のための通信に活躍。

落石無線局は1966(昭和41)年に電電公社の札幌中央電報局に統合され廃局となりました。

受信所は解体され、現在では当時の送信所跡が残るのみです。関係者の一部は記念として、送信所で絶縁体として使われていた重たい「碍子(ガイシ)」を漬物石として使ったともされています。

無線局の歴史的な役割は今も無線通信や航空史に関心のある人々には興味深いものです。