現在の警察無線はデジタル化され、音声圧縮技術や暗号化技術を組み合わせた高度な秘匿通信へ移行しています。
これに対し、かつてアナログFM時代だった警察無線の時代には、音声反転式という秘話機能が使用されていました。
これは、音声の周波数成分を反転させて送信することで、通常の受信機では内容を聞き取りにくくする方式です。秘話機能を解除できない受信機では、「ケロケロ声」のような不自然な音声に聞こえるのが特徴でした。
この秘話機能が導入された背景には、暴走族による警察無線の傍受問題がありました。当時のアナログ警察無線は比較的容易に受信できたため、取り締まり情報や警察官の動きが外部へ漏れることが問題視されていたのです。
こうした状況への対策として導入されたのが、音声反転式秘話でした。

「MPR-10」と「MPR-10A」
当時の警察無線機として知られるのが「MPR-10」です。ただし、この機種には秘話装置が本体側に内蔵されておらず、マイク側に音声反転装置を組み込む構造が採用されていました。
なぜ本体内蔵ではなくマイク側に秘話回路を配置したのかについては、現在でも詳細な技術資料はあまり確認されていません。ただし、当時の電子回路規模や保守性、既存無線機への後付け対応などが関係していた可能性があります。
その後継機として登場したのが「MPR-10A」です。こちらでは音声反転式秘話機能が本体側へ統合され、さらに緊急呼出ボタンなどの機能も追加されました。
正式な公的資料で明確に定義されているわけではありませんが、警視庁で使われた「10番A」という呼称は、この「MPR-10A」に由来すると言われています。
音声反転式秘話の仕組み
音声反転式秘話は、あくまで「簡易的に聞き取りを困難にするためのアナログ秘話方式」であり、現代の暗号通信と比較すると、秘匿性には大きな差がありました。
代表的な方式では、人間の音声に含まれる高い周波数成分と低い周波数成分を入れ替える、いわゆる「周波数反転」を行います。これにより、通常の受信機で聞くと、独特な「ケロケロ声」や不自然な音声として聞こえるようになります。
警察以外にも航空機公衆電話や船舶電話などでも使用されました。各社からその解読機が発売されるなど、解読したいという需要もあったようです。
なお、「位相反転」という表現が使われることもありますが、音声反転式秘話の本質は、厳密には音声周波数帯域の反転処理です。単純な位相反転だけでは秘話効果は得られません。
こうした方式は回路構成が比較的簡単で、当時のアナログ無線機にも導入しやすいという利点がありました。しかしその反面、秘匿性はそれほど高くなく、市販の解読機や専用回路を用いれば、容易に復元可能でした。
そのため、無線愛好者の間では比較的早い段階から解読方法が知られるようになり、結果として、警察無線の傍受問題が完全に解消されたわけではありませんでした。
もっとも、警察側も「無線通信は第三者に受信され得る」という前提で運用しており、特に機密性の高い情報については、有線電話や別系統の通信手段を併用していたとされています。このため、すべての内部情報が外部に漏れていたわけではありません。
都道府県警ごとに通称が異なる
平文から秘話の切り替えは、無線上で明確に宣言されていました。
一例として警視庁では、音声反転式を『10番A』、時間分割式を『56番』、またデジタル式秘話を『100番』としました。例えば10番A方式の秘話に移行する際は『10番Aセット願いたい』などと指示を出すのです。
秘話の通称は警察本部ごとに異なり、たとえば、
大阪府警では「SP」
岐阜県警では「マルA」「マルB」
兵庫県警では開始を「800」、終了を「805」
そして福島県警では、音声反転式秘話をなんと「キビタキ」と呼んでいたそうです。
キビタキは福島の県鳥ですが、どこか洒落っ気を感じるネーミングです。
音声反転式秘話の行方
その後、日本警察における移動体通信は80年代の『グリコ・森永事件』もあり、早急なデジタル化となりました。

350.1MHzスピード取締り波にも10番A
10番A方式は、後に交通取締り専用波である350MHz帯スピード取締り連絡波にも使われました。
この帯域は、現認係と停止係の連絡用に用いられ、秘話をかけた状態で速度違反の情報がやりとりされていたのです。
一時期は、レーダー探知機にもこの350MHz帯の受信対応機能が搭載され、無線交信を検知すると警告を発する機種も登場。
しかし時代は変わり、現在ではこの帯域の使用は廃止。
停止係の足元に有線のスピーカーを置き、現認係が違反を確認するとブザーを鳴らすという、よりアナログで確実な方法へとシフトしています。
また、特定小電力無線(特小)や、署活系を使う例も増えているようです。

そのほかの秘話方式
音声反転式があまりに衝撃的な登場だったため、アナログ時代の秘話といえば、そればかりが取り上げられるのですが、警察庁では他にも複数の秘話装置を開発、配備していました。
56番方式
音声反転式の「10番A」に埋もれ、あまり語られることのない秘話方式、その名も「56番」。正式には「音声分割反転方式」と呼ばれています。
1987年7月号の『ラジオライフ』「警察無線の歴史を見る」には、この「56番」という名称で紹介されており、音声を複数の周波数帯に分割し、それらを入れ替えて再構成するという、高度な方式が用いられていました。
原理としては、音声を帯域ごとに細かく切り分け、それぞれの位相を反転したうえで順番を変えて送信するというもの。
この56番は、10番Aよりも格段に高度な秘話方式である反面、装置のコストが高く普及せず、一部限定で使用されたとのことです。主に警備・警衛任務や、幹部警察官の指揮用車両といった、特定の重要通信において採用されていたと言われています。
また、当時の幹部警察官の車両には「移動警電(警察用自動車電話)」が搭載されており、その秘話レベルも階級によって異なっていたと考えられています。
一般幹部の車両には10番A、より高位の幹部には56番が搭載されていたという説もあります。
スペクトラム拡散方式
こちらも上述のラジオライフ誌によると”解読はおろか、電波が出ているかどうかさえわからない高度な秘話方式です。
とっくに警察では姿を消した音声反転式秘話、いまもお隣さんでひっそり生きている!?
このように、警察無線でかつて当たり前だった音声反転秘話は、アナログからデジタルへ移行するなかで、その姿は現場から静かに消えていきました。
ところが、警察以外で今なお現役として生き残っているのです。
家庭のコードレス電話
昭和から平成にかけて、一家に一台が定番となったアナログ・コードレス電話機。
実はこの時期に普及した機種の多くが、音声反転方式を採用していました。
もちろん現在の主流は、デジタル変調方式に切り替わり、秘話性も格段に向上しています。
とはいえ、あの頃の家電電話から漏れていた“逆再生みたいな音声”に、懐かしさを覚える方もいるかもしれません。
実際、横山公一先生の漫画にこの不気味な復調できていない音声を宇宙人の声と勘違いしちゃう女子高生が出てきたり……。
特定小電力無線機でも
特定小電力無線機(いわゆる特小)でも一部の機種に採用されています。
特定小電力無線機は業務やレジャーにも使えるマルチな無線。
レジャー用途では音質よりも“ちょっとした秘話性”があれば十分という場面もあり、今でも根強く使われているのがこの方式。
傍受されても内容がすぐに分からないという点では、昭和から続く優秀な“防御力”と言えるでしょう。
消防無線で音声反転式秘話が復活
一方、2016年に全国でデジタル消防無線の更新が完了すると、これまでごく一部の政令指定都市しか使えなかった「アナログ消防署活系無線」が、全国の小規模消防にも解禁されました。

その一部で音声反転式秘話が使用されています。
かつては10番A復調器が市場にあふれていましたが、現在でもそれに対応した機種は数えるほど。
AORのDR-DV10、そしてアルインコのDJ-X100(裏機能開放が条件)など、限られた受信機だけが“その音”をまともに聞くことができるようです。
ちなみに、かつて音声反転の解読機を販売していた老舗マルハマは2010年に倒産。
今では「10番Aを復調できる受信機」というだけで、どこかヴィンテージ機材のような趣きが!?
とはいえ、アルインコさんもAORさんも、消防庁との契約で“デジタル受令機は消防専用”として真面目に作っているはず。
にもかかわらず、しれっとアナログ消防無線で使われる音声反転式秘話解除機能を搭載してしまうのは、正直、なかなか大胆です。
もちろん現代の音声反転式秘話に秘話性を期待する人はいないかもしれません。
でも、そんな“ちょっとイケナイ機能”が、ひそかに盛り込まれてるっていう事実にときめいてしまうのです。
このように、現在でも一部のアナログ無線では簡易的な秘話方式として利用される場合があります。
もっとも、その役割は「本格的な暗号化」ではなく、一般的な受信による内容把握を多少困難にする程度の補助機能と考えるのが適切です。
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