「人民の声(Voice of the People)」は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に向けて韓国国内から発信されている短波ラジオ放送である。内容は主に北朝鮮の現体制に対する批判や、韓国側の立場からのニュース・解説・プロパガンダを含んでいる。
本記事では、短波(HF)帯無線における国家間の諜報活動に関連すると報道等で指摘されている特殊な無線通信やラジオ放送の事例を紹介しています。受信にあたっては法令を遵守し、違法な通信活動を行う外国政府に協力することのないよう、十分ご注意ください。
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対北朝鮮向け放送「人民の声(인민의 소리)」とは何か
「自由の声、真実の声をお届けする人民の声放送です!」
北朝鮮の有名女性アナウンサー・リチュンヒのような演説風の話し方と、奇妙な宣言とともに開始される文化語(北朝鮮標準語)の放送。
この放送は、冷戦期から現在に至るまで長期にわたり継続されてきた韓国による対北朝鮮心理戦の一環であり、明言はされてないが、名目上は民間の団体・個人が運営している形を取り、韓国政府・軍・情報機関との関連が指摘されている。公式の詳細は明らかにされていない。
しかし、様々な状況証拠から、韓国当局の直接的運営であることは疑いようのない事実である。
「人民の声」は地下放送
今なお続く韓国によるプロパガンダ放送の実態
結論から言うと、「人民の声」はプロパガンダ放送に分類されると考えてよい。プロパガンダ(宣伝放送)とは、狭義には相手の世論や心理に影響を与え、自国の立場を有利にしようとする情報発信である。さらに、分類すればプロパガンダ放送のうちの「地下放送」という位置づけになる。
北朝鮮からは「敵対宣伝」と非難され、韓国側は公には公式機関の放送とは明言していないが、実質的には政府主導の心理戦インフラの一部と見られている。
「人民の声」はまさにその典型にあたる内容を含んでいる。北朝鮮体制の批判、韓国側の政治的主張、脱北者証言、外部世界の情報提供などを通じて、北朝鮮住民の意識に影響を与えようとする意図が明確である。
冷戦構造の残滓ともいえるこの種の放送は第二次世界大戦まで遡ることができる。日本やアメリカもまた戦時中にこのようなプロパガンダを行なっている。日本は「ゼロ・アワー」が有名である。
「ゼロ・アワー」のように「人民の声」にはニュース、音楽、生活情報などの要素も含まれており、単純なプロパガンダ一色ではなく、心理戦・情報戦の複合的な一環と位置付けられている。こうした放送は冷戦期から各国が盛んに用いてきた情報戦略の一つであり、2025年の朝鮮半島で今なお続いているのだ。
広義のプロパガンダ放送の種類(例:アメリカのVOA、北朝鮮の平壌放送、中国の国際放送など)との比較
国際的なプロパガンダ放送と「人民の声」の位置づけ
国際社会では、放送電波を利用した対外宣伝活動が長年行われてきた。こうしたプロパガンダ放送は、いわゆる「国営国際放送」から、敵対国家向けの「心理戦放送」まで多様な形態が存在する。
たとえば、アメリカ合衆国は「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」を運営し、民主主義や自由主義の価値観を広く発信している。VOAは国際社会への情報提供を標榜しているが、アメリカの立場や世界観を反映した内容が多く含まれており、広義のプロパガンダ放送と位置付けられる。一方、イギリスのBBCワールドサービスやフランスのラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)も同様の国際情報発信を行っている。
中国は「中国国際放送(CRI)」や「CGTN」などを通じて、共産党政府の立場を国際的に広めている。ここでも国家主導の情報発信が組織的に行われており、内外に対する宣伝色が強い。
北朝鮮自身もまた「平壌放送」や「朝鮮の声放送(Voice of Korea)」を運営し、北朝鮮政府の思想や政策を対外的に発信している。とりわけ韓国・アメリカ・日本に対しては露骨な非難や思想宣伝を行うことで知られている。
このように各国が自国の政治的立場を反映した国際放送を行っている中で、「人民の声」はより特殊な位置にある。これは国際放送というよりも、特定敵対国(北朝鮮)向けの心理戦放送に分類される。韓国側はこの種の対北放送を冷戦期から長年にわたり継続してきた。かつては「自由の声放送(Voice of Free Korea)」や軍主導の心理戦放送が広く行われていたが、南北関係の変動に伴い、形を変えながら現在に至っている。
「人民の音」は名目上は民間放送とされているが、実質的には韓国側の情報機関・軍事心理戦部門との連携があると推測されている。その内容は北朝鮮体制批判、脱北者の証言紹介、韓国社会の現状紹介など多岐にわたり、北朝鮮の統制情報空間に対抗する外部情報源として機能している。北朝鮮当局はこれを強く警戒し、妨害電波を出すなどの封じ込め工作を継続している。
このように、「人民の音」は広義のプロパガンダ放送群の中でも、敵対国に対する直接的な心理戦放送(ブラック・プロパガンダに近い)に分類される存在である。冷戦型の宣伝戦が今なお継続している象徴的な放送のひとつであると言えるだろう。
放送内容
内容は北朝鮮体制批判と大韓民国の優越性主張がほとんど
その放送内容は多岐にわたる。北朝鮮体制の問題点を指摘する政治評論や、脱北者の証言、韓国国内の社会経済情報、北朝鮮住民向けの生活情報、文化的プログラムなどが組み込まれている。北朝鮮の統制情報網の隙間を突き、外部情報の提供を目的としていると分析されている。
「人民の音」の主な内容は、概ね以下の二本柱で構成されていると評価されている。
第一に、北朝鮮体制に対する批判である。北朝鮮の政治指導部の独裁体制、経済状況の困窮、人権侵害、軍事的挑発行動、社会統制の厳格さなどを批判的に取り上げる内容が中心を占める。これにより北朝鮮住民の現体制に対する不満を誘発し、思想的揺さぶりを狙う心理戦的要素が色濃い。脱北者の証言、北朝鮮内部の情報、国外報道の紹介などを交え、北朝鮮の報道統制では伝えられない情報を流す役割を担っている。
第二に、大韓民国の優越性の主張である。韓国社会の経済的発展、自由な民主主義体制、福祉水準の向上、国際的な地位向上などを積極的に紹介し、北朝鮮体制と対比させる構成が多い。韓国の豊かな日常生活や文化、脱北者が韓国で順応して生活する様子などを繰り返し紹介することで、「南に行けば自由と豊かさがある」という印象を与えようとしている。
全体として「人民の声」は、北朝鮮の体制批判と韓国の優越性強調が中心テーマとなっており、これこそが対北心理戦放送の基本構造を成している。他方で、これらの硬派な政治宣伝一辺倒ではなく、音楽や娯楽番組、実用的な生活情報、健康・医療知識なども含まれており、長時間の聴取に耐えるよう工夫されている側面もある。これは受信者の興味関心を維持し、メッセージ浸透を図るための心理戦技法の一環である。
したがって、「人民の声」は単なるニュース放送ではなく、北朝鮮内部向けの継続的な心理戦・思想戦として設計されたプロパガンダ放送であることは間違いない。
周波数
周波数(kHz) | 送信時間(KST) | 出力(kW) | 送信所 |
---|---|---|---|
3480 | 20-16 | 50 | 高羊 |
3910 | |||
3930 | |||
4450 | 16-12 | ||
4560 | 20-16 | ||
6520 | 16-12 | ||
6600 |
使用周波数は短波帯の複数周波数で、時間帯によって変更されることがある。受信は北朝鮮国内の一般市民にとって容易ではないが、秘密裏に短波ラジオを所持する一部住民にとっては重要な外部情報源となると考えられている。
北朝鮮当局による妨害も
なお、北朝鮮当局はこれらの放送を「反動的宣伝」と非難し、積極的に妨害電波(ジャミング)を発して受信を阻止しようとしている。
特に、4450 kHz、6520、および6600 kHzの周波数では、サイレンの音のような北朝鮮当局による強力な電波妨害が行われるが、日本国内では比較的、この妨害を受けることなく、放送を聴取できる。
冷戦構造の残滓ともいえるこの種の古典的なプロパガンダ放送は、今なお南北対立の現実を象徴していると言えるだろう。